訪問診察エピソード

 今から15年前には、今年(2025年)がベビーブーム世代が75歳を迎える年として危機的にイメージされる年だったらしい。15年前は、国のあり方が定まらず旧態依然とした市場原理主義的な施策でどうにもならない状況だったが、その後、環境・エネルギー問題を中心にして、定常化社会を実現していくしか生き残る道はないことが国民の間にも共通認識となって、食糧自給、エネルギー自給、ケア社会を3本柱にした政策が実行される様になった。地産地消の食糧政策で安全な食品と栄養補給で肥満や糖尿病が激減し(アメリカの食糧メジャーの影響をブロックできた)、エネルギーは、再生可能なクリーンエネルギーが日本の技術で自給できる様になり(アメリカのエネルギー政策を跳ね返した)、原発はゼロになり、主要な輸出産業にもなっている。超高齢社会でケアを必要とする高齢者が増加したが、それにたずさわる人で雇用が増え、さらに社会保障充実で老後の心配が無くなり、旅行や文化活動、新しいエネルギー政策に伴う需要が増え経済も安定している。いい世の中になったもんだワイと思いながら今年で70ウン歳になる私も、少々ガタが来ているが現役で訪問診察に出かけている。

 今日は、100歳で独居の外橋さんを訪問する。外橋さんは年齢相応の認知能力の低下があるもののきちんと意思表示ができ、一人暮らしを続けている。昭和生まれが今年から100歳になってきている。寝たきりに近い状態だが施設ケアとほぼ同じレベルのケアが定時と随時に提供されている。昔だったら外橋さんは施設入居となっていただろう。状態が安定しているときは、医師の出番は余り多くないが定期的な健康チェックと生活に目を向けての状態観察をおこなっている。状態変化があったときには適切な評価をして、入院加療の必要性を判断する。この前も、少し元気がなく食事摂取量も落ちてきたとの訪問看護師の報告ですぐ往診したところ肺炎でSPO2も89%で入院を関連病院にお願いした。高齢者が入院したときには、それまでの生活がビジュアルにかつナラティブに病院スタッフに伝わるようになっている。急性期病院でもケアスタッフが配置され,認知症がある場合などはマンツーマンで対応する様になっている。無論、栄養士やリハビリスタッフといったマンパワーも充実している。関連病院も15年前は100床あたり70名のスタッフだったが今は300名のスタッフがいる。入院しても生活を支える面を強化し、かつ専門的な栄養評価やリハビリが集中的に行われ、急性期の非侵襲的な治療を短期間に終えられる様になってきた。入院でしかできない治療が終わると、すぐ退院となる。退院直後は24時間泊まり込みのスタッフが配置されソフトランディングをはかっている。高齢者もはやく家に帰ると元気になることが多い。外橋さんも去年入院したときは5日間で退院し、退院後はなじみの職員が3日間、24時間対応し元の生活に戻れた。

 認知症も300万人を超え大変だと15年前は騒がれたものだが、新しい国の政策で競争原理一辺倒ではなくなり地産地消の食糧・エネルギー政策とも相まって、地域コミュニティの再生がすすんだため、認知症高齢者を地域でソフトに受け止めることが可能になってきた。認知症高齢者そのものの数は多いものの、不安なく安心してかつ安全に暮らせる地域になったもので、介護問題というものは本当に少なくなった。

 私は、「自動運転」の車で訪問診察にえっちらおっちら行っているが、地域のなかで自分が果たせる役割があることが生きがいになって、それなりに元気で診療している。

 訪問診察エピソードは60回目になりました。これで、どっとはらい。

 保険医教会主催の医師とコメディカルのためのシンポジウム「胃ろうはほんとうにやめられるか」が以前ありました。この時に当院での胃ろうについてまとめてみましたので今回はそのことと胃ろうにまつわる印象に残っているお二人のお話です。
 古いデータですが、2007年7月から2012年6月までの5年間に、当院で訪問診察を行った方は418名になります。その中で胃ろうを使用していたのは24例でした。全体の約6%です。訪問診察開始後に経口摂取困難となり胃ろう造設した方が8名で、残りの16名は訪問診察開始時から胃ろうを使用していました。途中で胃ろう造設になった方8名中、5名が神経難病で2名は脳血管障害、1名のみがアルツハイマー型認知症でした。訪問診察開始時より胃ろう使用していた方16名中、3名が神経難病、7名が脳血管障害、1名が認知症、4名がその他でした。いずれも、神経難病や脳血管障害による器質的な嚥下障害に対しての処置としての胃ろうが大多数でした。認知症でだんだん食べられなくなってという方は少数でした。当院で管理する様になってからの胃ろうの期間は、最長121ヶ月で最短2ヶ月で平均47ヶ月でした。24例の転帰ですが、8名が在宅生活継続、5名が在宅で看取り、5名が入院して死亡、胃ろう中止が3名、入院して生存が2名、施設入居が1名でした。

姉妹が一触即発
 アルツハイマー型認知症で、訪問開始以後に食べなくなって胃ろうを造設した枝長さん(仮称)のお話です。枝長さんは初診時81歳の方で、大事なものの紛失、リモコンやレンジの使用困難などがあり受診。アルツハイマー型認知症と診断しました。その後独居困難でグループホームに入居、さらに移動動作が困難となり訪問診察となっていました。その後、食事摂取量が低下し、その原因が摂食への認知や意欲の問題なのか、嚥下機能の低下なのかを見極めるために入院精査したところ前者と考えられました。この時点で娘さん2人に病状を説明し、選択肢として胃ろうについて相談しました。長女さんは、食べない理由がアルツハイマー型認知症の経過できているのなら胃ろうをせずにという意見で、三女さんはこのまま何もしないのは納得できない、是非胃ろうをとの意見で、診察室に火花が飛び散ります。お互い相手の顔も見ないでの論戦で火花に冷たいものも感じます。結論として胃ろう造設となりその後の経過は34ヶ月でした。最後は、姉妹が泊まり込み、最後を看取りました。その中でお二人に何度か病状説明し、お二人も一緒に母親の最後を看取ることができたことでお二人の距離が縮まった様な気がしています。枝長さんもあの世でほっとしているのではと思っています。

胃ろう最長の方の延命
 武田さん(仮称)は、多系統萎縮症で他院で胃ろう造設した後、当院から訪問診察に行くようになった現在71歳の方です。約10年になります。見た目には無言無動状態ですが、家族はちょっとした反応を喜びながら一生懸命介護されています。武田さんが肺炎を起こして入院し人工呼吸器をつけなければあぶない状態になったときに、いつも介護している妻は、ここまできたのだからつけなくてもと思ったのですが遠方からかけつける肉親が来るまではと思い人工呼吸器装着となりました。私が病室を訪れ、人工呼吸器が装着されているのをみたときは、正直「え、人工呼吸が付いている」と思いました。が、その後武田さんは無事、人工呼吸器から離脱できて元通り在宅生活に戻ったのをみて「延命」という行為の持つ多様性を実感しました。

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 訪問診察には様々な職種の方や学生さんが研修として同行することがあります。
松本さんの家に到着すると、看護師さんは勝手口から家の中に入っていきます。私と研修生は別行動で家の前の松の木の所に行きます。旧北国街道に面したお宅の前には「旧跡」を示す表札が出ています。研修生には「旧跡」のいわれを説明した後に松本さんの家に入ります。松本さんに「研修生に旧跡の説明をしてきました」と報告すると松本さんもにっこりです。型どおり診察をした後、歩行状態の観察もかねて、居間から玄関まで歩いてもらいます。研修生も一緒です。玄関には、松本さんが元気なころに集めたもの(シーサー、絵画、お面など)が飾ってあります。極めつけは、水琴窟の音がする甕です。電気を入れると水がごぼごぼっと湧いてきて上面の貯水皿にたまります。いっぱいになり「あー、あふれる」思った瞬間、澄んだ高音の水音が響いてきます。水琴窟の音です。同行の研修生は異口同音に「驚いた、すごい」といって感心します。松本さんも「にやり」です。元気だった頃の松本さんの人生を思い浮かべる瞬間です。松本さんがいろんな観察眼で選んできた品々は、何故か私の好みにぴったりで余計に松本さんに親近感がわきます。しかし、こんな松本さんも一時期はかなりひどい認知症の症状がありました。

 松本さんはながらく糖尿病で他院に通院中でした。閉塞性動脈硬化症の精査で入院し、心臓カテーテル検査を受けた3時間後に脳梗塞を発症し、被害妄想、せん妄状態となりました。退院後自宅でもせん妄状態が続き、かつインスリンを打たせないなど拒否的な態度となりまた歩けるのに「動くな」という架空の命令が頭の中にあり歩かない状態となりました。娘さんがケアマネージャーをしており、このまま閉じこもりではますます認知症が悪化すると懸念し、当院の認知症対応通所介護を利用するようになりました。通所介護の担当者が松本さんの認知症について医学的なアプローチもキチンとすべきではないかと娘さんに話して、その結果私の外来に車いすで受診となりました。
 長谷川式は10点で、診察中「不安だ、ゲームが上がると死んでしまうのではないか」と繰り返されます。松本さんの頭の中に人生の双六があり、あがりそうになると、それで人生が終わるのではないかと不安が襲ってくるようです。CTでは、右大脳半球に分水嶺梗塞を認めます。おそらく内頚動脈狭窄と思われました。とりあえず不安感が和らげられないか、レスリンを処方しました。そして通院困難ということもあり訪問診察をすることにしました。
レスリン投与で少しはいいのですが、「自分が動くとガラスが割れるんではないか、あぶないから電気を消せ、死ぬんではないか」などと繰り返します。精神科の医師に相談してセロクエル(25)を一日3錠追加しました。その後は徐々に落ち着いてきまして、1年ほどで両薬とも中止になりました。歩行も安定してできるようになりました。現在まで続いている行動障害は、食事の時に食べ物を分別するという行為です。たとえば、野菜炒めなら、キャベツはキャベツ、人参は人参、肉は肉という具合に分別するというものです。そのため食事にとても時間がかかると妻がこぼしますが、一時期の異常行動からみれば「これくらい」と笑いながら話されます。初診の頃とはずいぶん良くなりましたが、長谷川式は13点とそれほどの変化はありません。訪問診察時の松本さんとの会話はいつも丁々発止で、ウィットに富み笑いが絶えません。同行の研修生は松本さんをみて認知症とは決して分からないだろうなと思っています。今の松本さんは、不安が消え安心して暮らせており、これが認知症ケアの目標なんだなと感じています。

「在宅医療とは、病院のベッドを地域に持つものだ」という人がいますが、私はとても違和感を感じます。在宅ケア(医療も含む)のもつ「癒やし効果」について今回は考えてみたいと思います。がんの終末期の緩和ケアとして、スピリチュアルケアがあります。「苦しむ患者から逃げない!医療者のための実践 スピリチュアルケア」という本1)の中で、人間の存在を支える3つの支えとして、時間存在(将来の夢がある)、関係存在(支えとなる関係がある)、自律存在(自分で決める自由がある)があげられています。そして人の存在は、この支えがしっかりとしているとき、平面は水平に保つことができるとしています(図1)。

在宅の持つ、癒やし効果をこのモデルを使って、特に認知症の方の場合の「在宅力」を考えてみたいと思います。認知症の高齢者が入院した場合を考えます。認知症が高度の場合、回想的記憶と言われる過去の出来事についての記憶も、展望的記憶と言われる将来行う行動についての記憶も障害されているので、瞬間瞬間を生きているといわれます。つまり、時間存在は存在しないに等しいという事になります。自律存在はどうでしょうか。急性疾患で入院した場合、そのことに対する認知ができない場合、点滴を抜いたり、安静を守れなかったり、病院から出ようとしたりします。それが、認知症の方の自律存在なのですが病院というルールの中では認められません。自律存在が折れます。時間存在も自律存在も折れてしまうとまず平面には保てません。平面に保つためには関係存在をかなり太くしなければなりません。が病院ではどうしても疾患に目が行き、認知症の高齢者との関係存在を築くことが困難です。つまり、認知症高齢者が入院するということは、3つの存在すべてがない状態になるということです(図2)。

竹内孝仁氏は認知症の方の異常行動を3つに類型化しています2)。葛藤型、遊離型、回帰型です。現在の自分とかつての自分のギャップに葛藤し粗暴や異食、もの盗られ発言など、異常な反応を示す行動を葛藤型といい、現実の自分を受け入れることができず現実から遊離して自分の世界に閉じこもることで自分を保とうとする遊離型、現実の自分を受け入れることができずかつての自分らしかったころに変えることで自分を取り戻そうとする回帰型です。訪問診察に行っている方が入院された場合、治療が長引くと遊離型になる方が多い印象です。この方が、在宅に戻るとどうなるでしょうか。まず、在宅は関係存在が太いところです。自律存在は、少なくともいやがることはしませんし自由度が高いのでまあ保たれると言っていいでしょう(往診に行っていやがることをすることもありますがケアする人がうまくカバーしてくれます)。時間存在がなくてもその2つの存在があれば平面に保てるのでしょう(図3)。そうすることで生きるということの苦痛が軽減され、それで元気になるのではないでしょうか。

1)小澤竹俊:苦しむ患者から逃げない!医療者のための実践 スピリチュアルケア 日本医事新報社(2008)p66-67.
2)竹内孝仁:介護基礎学 医歯薬出版(1998)

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多発性ラクナ梗塞による歩行障害と、アルツハイマー型認知症を合併した平森(仮名)さんは妻との二人暮らしです。
初診時の主訴はちょこちょこ歩きで長い距離が歩けないというものでした。診察していると、こちらの質問に対して家族のほうを降り向いて逆に聞く「左右見あげ徴候」というアルツハイマー型認知症によくみられる徴候もあります。
長谷川式は16点で遅延想起が障害されており、MRIでは多発性ラクナ梗塞と、海馬の萎縮が目立ちました。その平森さんは診察室では分かりませんでしたが、妻からいろいろ話を聞くと、妻への暴言があるとのことでした。易怒性への効果と認知能力への効果(どちらかと言えば前者)を期待してメマンチンを処方しました。2週間ごとの受診が必要ですが、「わしはどこも悪くない」と本人はなかなか受診しません。妻のみが受診したときにゆっくりお話を聞く機会がありました。妻が、平森さんに内緒で、2年前にファンドを勧められ、分配金が月に5万円あるという話にのってしまい結果として250万円損したとのことです。それがばれて、以後平森さんに何かあるとなじられるという話でした。

かなり以前に豊田商法でだまされた患者さんが、口の中から金(きん)が出てくるという体感幻覚を起こした人のことを思い出しました。そうこうするうちに平森さんが自宅で転倒して痛がって寝たきりになっていると妻から連絡があり、すぐに往診すると腰部の棘突起部の殴打痛があり、体動時にかなり痛がるので圧迫骨折を疑い、エルシトニンの筋注をして鎮痛剤を処方しました。その6日後にケアマネから電話がかかってきました。ずっと寝たきりで起き上がれず、食事も寝たまま、排尿は尿器で、排便がずっと無いので入院させてくれという内容でした。ケアマネには、「認知症の方はなるべく入院させない方がいいと思っているので、もう一度往診して入院の必要性を判断する」と言いました。往診すると、疼痛は軽減してきており起き上がりは介助で可能で、歩行は軽介助でできました。ただ排便が2週間以上ないとのことで、排便コントロールと疼痛看護目的に訪問看護を入れ、廃用に対して訪問リハをいれれば乗り切れるのではないかと考えました。

特別訪問看護指示書を書き、翌日から訪問看護にはいってもらいます。浣腸で排便があり本人も妻もほっと一息です。今度は廃用症候群による歩行障害に対して訪問リハにはいってもらおうとケアマネに連絡しますが、なにやかやといって話が進みません。訪問看護は特別訪問看護指示書で医療保険で急場は可能ですが、訪問リハは介護保険優先なので小回りがききません。短期集中で訪問リハを入れてくれと強く指示し、ようやく実現しましたがのんびりした対応です。

状態変化の時に、短期集中的に対応するという考えは、介護職のケアマネには理解されにくいのかなと感じました。もうひとつは家族が大変だからといって家族のためのケアプランになることが多いという感じもあります。本人にとってどうすることが一番いいのかを考えて欲しいと常々言っています。御用聞きケアマネではだめだということです。といっても、制限の多い介護保険制度の中でケアマネさんも苦労していることは事実なので、意思疎通をよくしていかなくてはとも思いました。

以前、病院で当直していたときの話です。
病院と関係あったある市会議員から電話がかかってきました。「わしの知り合いの家の者が亡くなり、かかりつけの先生に死亡診断書を書いてもらったのだが、何か息をしているようなのでみにきてくれんか」という依頼です。
「えっー、死亡診断書が出たのなら亡くなったことに間違いは無いと思いますがーーー」と返事すると「たのむこっちゃ」と言われたので断るわけにも行かず出かけました。死亡診断書が出ている人の往診は初めてです(滅多にあることではないでしょうし、以後そういったことは2度とありませんでした)。
往診すると、家にはすでに、黒白の幕が掛かっています。中に入ると線香のにおいがただよってきます。仏壇も開き、燈かりがともっています。家人はもちろん、親戚の方もその市会議員も心配そうに回りを取り囲んでいます。型どおり、呼吸停止、心停止を確認し、瞳孔も散大していました。そればかりか、死斑も出ており、死後硬直もあり間違いなく死亡されていました。息をしているようだというのは、ご遺体のすぐわきに石油ストーブが焚かれており、その熱気で肺の中の空気が膨張したのか泡のようなものが鼻腔からでてきたことを錯覚したようです。
「間違いなく死亡されています」と電話をかけてきた議員さんや家族の人に厳かに告げました。身構えて往診した分、どっと疲れて帰院しました。無論、往診料は算定できません。死亡診断書が書かれた後のまれな往診?の話でした。

Kさんは、パーキンソン病の方です。
娘さんとの二人暮らしでしたが、娘さんは仕事をしておりパーキンソン病の進行とともに介護量が増え自宅での療養は困難と娘さんは考えてある老人保健施設に入所になりました。
Kさんは娘さんが会いにくるたびに涙を流して家に帰りたいと訴えました。母のその涙をみて娘さんは再度在宅介護をすることを決めました。通所系サービス、訪問看護、訪問リハビリテーション、訪問介護、そして訪問診察をいれて在宅療養を継続されました。その後もパーキンソン病は進行し、胃瘻造設をしました。
当初は痰のゴロツキも多く、微熱もしょっちゅう出ていたのですが、半固形化栄養をしてから比較的落ち着いていました。この間3回ほど入院がありましたが、娘さんは最後まで自宅での療養を希望されました。ある日の夜に、娘さんの呼びかけに応答しなくなり往診、血圧低下、低酸素血症を認めました。娘さんはこのまま自宅での看取りを希望されました。
その翌日の夜はちょうど大手町の夜間急病診に出向していました。訪問看護師より電話がかかってきました。午後8時頃に急に呼吸がおかしくなったと娘さんから連絡があり看護師が駆けつけると心肺停止状態とのこと。急病診の診療の合間に駆けつけ、死亡確認したのち、「11時すぎにまた来ます」といって急病診にとって返しました。急病診の出向が終わるとクリニックに戻り死亡診断書を書いてKさん宅に持っていきました。私にとってはこれが本当の往診だと思って行ったのですが、到着するとお坊さんがきてお経をあげています。葬儀屋さんもきていて相談中でした。私も線香をあげ冥福を祈り、娘さんの長い介護をねぎらいました。訪問診察を初めて約8年でした。

 訪問診察に出かけるときは、当然靴を履いていきますが、患者さんの所へ着くと靴を脱ぎます。その後は、靴下のままであがる(裸足のことはない)か、用意されたスリッパを履くか、マイスリッパを履くか、靴を脱がずにあがるかの4通りがあります。今回は訪問診察時に足の裏に感じた違和感のお話です。

 一番多いのは靴下のままで上がることですが、困ったことが起きることがあります。Aさんは、いつとはなく閉じこもりになり歩行障害や失禁も出てきて家族は何とかしなければと思ったのですが、本人は病院に行くのは絶対にいやだと言い張りました。困り果てた家族が相談に来て、それでは往診しますということになりました。初回訪問し玄関を開けると尿臭がしてきます。スリッパがなかったのでそのままあがり部屋に入ります。炬燵に横になっていたので近づくと足の裏に湿気を感じます。布団をめくろうとすると布団もしっとりです。すわるとズボンまでしっとりしそうなので座らず診察します。その後訪問診察の車に戻り予備の靴下に履き替えます。

 それではスリッパを履けば大丈夫かというとそうでもありません。ある施設に行ったときのことです。備え付けのスリッパに履き替えると靴下をとおして水分がしみてきます。水分の成分は分かりませんが水道水でないかもしれません。体内から出た水分の可能性もありますが訪問診察が終わるまではじっと我慢です。その後訪問診察の車に戻り予備の靴下に履き替えます。またあるお宅にお伺いしたときのことです。きっちりとスリッパを用意してくださっているのですが履くと水分を感じます。これは、家人がきれいにしてくださった結果だろうと思いました。つまり水道水です。患者さんが寝ている部屋は、自分でおむつ交換をするために大便がカーペットに着いていたりするのでそのスリッパを脱ぐわけにはいきません。湿り気を感じながら診察します。2週間後に再び訪問したときはスリッパを履くのをためらいました。が、そっと履いて体重を徐々にかけ湿り気を感じないことを確認したのち全体重をかけました。

 次はマイスリッパです。Bさんは日中独居の方です。玄関は上がりかまちになっていますが、上がろうとする床面は、玄関のたたきと同様、砂と小石でざらざらしています。家の外も中も同じような感じです。一瞬、靴のまま上がっても同じだなと思ってしまいますが、同行の看護師さんがお手製のスリッパを差し出します。足形に切った薄ボール紙に両面テープがつけてあります。それを靴下にうまく貼ってから上がります。ボール紙を通して小石を踏む感じや砂のざらざらした感じがします。

 最後の、靴を脱がずに上がることはありません。ある有料老人ホームではお部屋までは靴のまま行きますが部屋の中は靴を脱ぎます。

 ちなみに、訪問看護ステーションの看護師に聞くと、底がナイロン製で水がしみこまない浅でのソックスのようなものを履いて訪問しているとのことでした。市販品ですが残念ながらそれはMサイズしかないとのことでいつもの通りのやり方で訪問しています。皆さんはどうしておられますか。

 介護老人福祉施設へは、「配置医師ではない場合----それぞれの施設に入所している患者に対してみだりに診療を行ってはならない」とされています。みだりに診療を行ってはならないという言い方には、「かちん」ときますが、長年診ていた患者さんが入所したらもう診療は継続できません。10年以上前は、そういった通達も不勉強で家族に頼まれるとハイ、ハイと訪問していました。

 以前、会計検査院から、訪問診療料の算定はできません。という指摘を受けたことがあります。Wikipediaによると「国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院が検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない(日本国憲法第90条)」とあるように我々庶民には無縁のお役所と思っていたので会計検査院からの指摘ということで驚きました。クリニックのすぐ近くに住んでいた方で、多発性硬化症の再燃を繰り返し失明、四肢麻痺、神経因性膀胱となり、訪問診察で膀胱留置カテーテルの交換をしていました。この方が、身体障害者療護施設に入られた後も月に一回カテーテルの交換に行っていました。月一回でも訪問すると患者さんからとても喜ばれていたのですが、配置医師がいる施設なので訪問診療料は算定できないと、会計検査院から指摘されたのでした。返還命令に応じざるを得ませんでした。訪問診察に行けなくなった旨を患者さんに伝えに行きましたが、寂しそうに「仕方が無いね」という返事でした。「自分達の知識不足から、患者様や連携先に迷惑を掛けることもあり、制度や仕組みについて勉強する必要を痛感しスタートした全国在宅統一テストについては、第46話で書きましたが、上記のことも知識不足であったことは間違いないものの、割り切れない感じも強く持ちました。在宅医療では割り切れない感じの報酬がいくつもあります。

 ながらく、診ていた方が認知症になり家族介護も困難になり、あるグループホームに入られました。以後も家族の希望もあり診療を継続するために訪問診察に行っていました。ところがある日、息子さんがクリニックに見えられ、「主治医を変わるようにと施設側から言われた」と言いにくそうに話されます。これまで何のトラブルもなく訪問していたのですから、急に家族が希望して主治医を変わるように希望したとは思えません。何かまずい対応があっただろうかと、今までの診療を胸に手を当てて考えてみましたが特に思い当たることはありません。施設からの指示で家族の希望という形をとるように言われたのでしょう。こういった例は、このグループホームだけではありません。この連載の第一回は、認知症の行動障害について、お嫁さんと話す中でその背景がおぼろげに分かったという話でしたが、その方に、家族も希望され訪問診察に行っていました。がこの方もある日、家族の人はこのままの訪問診察を希望したのですが、施設に関連している医師に変更するように強く言われたとのことで、クリニックに来られました。家族も施設の方針に逆らうこともできず「すみません。すみません」とおっしゃっていました。そのグループホームの職員は近くの先生にお願いすることになりましたと話していましたが、後日分かったのは当院より遙かに遠いところの先生でした。嘘までついての主治医変更の画策にうさんくさいものを感じました。

  本人、家族が希望しても継続しての診療が、制度や施設の意向でできない現状のお話でした。

49.入院した在宅患者さんの病棟回診?お見舞い?

 訪問診察に行っている方は、入院される頻度は高いと思われます。入院したときに診療情報提供書に加え、ADL・IADL・認知症の有無や程度・住居の様子などを記したアセスメント表と、訪問時に撮影した顔と全身の写真、そして住んでいる部屋の様子などを写した写真を添えて病院に送っています(第14話)。当クリニックから訪問診察に行っている方の内、一日断面でみておおよそ20名弱の方が常時入院されています。今回はこの方たちが入院している病棟に回診に行っているお話です。

 毎週月曜日の午後に、往診医(私)といつも往診に同行する看護師、居宅療養管理指導をお願いしている薬局の薬剤師さん、居宅介護支援事業者のケアマネジャーさん、そして病院の看護師さんで病棟を回ります。病棟では、「御苦労様です、在宅回診です」と声をかけナースセンターに入ります。電子カルテをみせていただきその病棟に入院中の在宅患者さんの医療情報をチェックします。

在宅回診を始めた目的は、1.入院治療に関する在宅医としてのコメントをすること、2.「これなら後は在宅で見られますので退院でもOKですよ」というように退院の見極めをすること、3.「退院したら又訪問しますよ」と話すことで少しでも患者さんの闘病意欲が高まるようにすること、などです。入院治療に関するコメントは、当初は、回診の後に文書にして送っていたのですが力量不足で急性期治療にまで踏みいってのコメントができずすぐに中止してしまいました。急性期の治療は病棟医にお任せです。退院の見極めは、自宅で家族からの介護を受けている方の判断は、なかなかできません(家族の意向がリアルタイムには把握できないので)が、居住系施設では、介護の様子が分かっているのであとは任せてくれという感じになります。ケアの質が分かっている場所への退院の判断は比較的容易です。あまり食べられていない方でも、このまま入院していても同じことなので、居住系施設にかえしてくださいと病院の看護師に伝え退院してもらいます。居住系施設に戻ると案外食べられるようになる人が多いものです。うまくいかないときもありますがそれは病院にいても同じことなのでよしとします。一番実が上がっているのは、「退院したら又訪問しますよ」といったお見舞い的な面です。「それでいいのだ」と思っています。

病院に入った方で、肺炎や尿路感染症を繰り返し、だんだんレベルダウンし、回診し名前を呼んでも当方のことが認識できなくなってしまう場合もあります。徹底してキュアをして最後は,文字通り、矢尽き刀折れといった感じで亡くなる方も多いです。

MRSA、クロストリジウム・ディフィシル、ESBLなどに感染して回診もままならないこともあります。

障害を持った高齢者への入院医療提供にあたっては、ケア面でのマンパワーを短期集中的にかけないと廃用や生きる意欲の低下などの負のスパイラルに入る危険性が高いと思われます。医療と介護の連携ということがよく言われますが、入院の場合は連携というより共同・協同が必要と感じています。

48.在宅医療は心不全の血管拡張療法!?

高齢者は環境の変化への対応が困難な場合がおおいと言われています。それが如実に現れるのが入院です。入院したら、おじいちゃんが歩けなくなったとか、認知症がすすんだとか家族からよく聞かされます。リロケーション・ダメージという言葉もあり世界共通のようです。高齢者医療のナショナルセンターである独立行政法人国立長寿医療研究センターの総長である大島 伸一さんが、とある学会のシンポジウムで「在宅には不思議な力がある、在宅に病院から戻ると元気になる、このことを医学的に解明する必要がある」とおっしゃっていました。それは在宅のみならず、生活の場であるグループホームなどでも一緒のことで両者の共通項を考えると自ずから答えが出てくると思いました。それはなじみの空間で、なじみの人間関係の場だということです。そしてその場の主人公はその人自身であることです。三好春樹という介護分野では有名な人がいます。この方は医師と看護師のことをよく思っていない方で(医師で一目置いているのは、太田仁史氏と竹内孝仁氏の二人だけ?)すが、高齢者が医療の場面におかれた場合と、福祉の場面におかれた場合での決定的な違いは、後者は高齢者(三好春樹は年寄りと呼んでいますが)に「いやなことをしない」と述べています。考えてみれば、医療はその行為の意味を理解できない認知症の高齢者にとってみれば「いやなこと」ばかりです。

 このことに関連して思い出したのが、以前行われた保険医協会での在宅医療講演会でした。日本在宅ホスピス研究会会長で、岐阜市で開業されている小笠原先生に講演していただいたのですが、先生は名古屋大学医学部にいる時に心不全の改善因子が何かということを一生懸命研究したとのことです。75歳の男性で虚血性心筋症のため,心不全で年間3回の入退院を繰り返す人の在宅主治医となった話です。平成3年4月から在宅医療(緩和ケア)を開始し、その後10年間、好きなものを食べて入院歴無しで過ごせた例を呈示し、「在宅医療は心不全の血管拡張療法」だとおっしゃいました。在宅医療開始時は心胸比が82%あったのが平成6年には心胸比54%となったとのことです。自宅にいて安心、安楽、気まま、自由感のなかで生活することで血管へのロードが減ったのだろうと推測されています。

 これを科学的に明らかにすることは、なかなか困難でしょうがストレスフルな環境は、生体にとって良いことでは無いだろうと容易に推測されます。予備力の少ない、また理解しての忍耐が困難な高齢者(特に認知症)には、特にそうです。入院であってもその事を理解した上での医療の提供が望ましいのですが、キュアが優先されるなかではなかなか困難です。入院でもなじみのヘルパーが1週間ほどつきっきりでケアすることができたらいいなと夢想しています。究極の医療と介護の連携です。

 竹内孝仁氏は『医療は「生活」に出会えるか』という本を今から20年以上前に出しています。読者諸兄にも一読をおすすめしたい本です。在宅は形としては、生活に出会える医療と言えますが、その生活という意味と本質を深めていく必要があると感じています。

47.心不全 急性増悪なのか末期なのか

死んでもいいから入院したくない、早くお父さんの所に行(逝?)きたいと言い張る方への訪問診察の話です。

 川南ゆうこさん(仮名)は87歳の独居の方です。三尖弁閉鎖不全による慢性心不全、慢性腎不全、両側変形性膝関節症で近医に通院中でした。が徐々に心不全は増悪していきました。
8月はじめより食欲低下があり近くに住む娘さんが心配して8月17日に他の医療機関を受診しました(入院のことも考え)。本人はこのまま逝きたいとのことで検査などは希望しませんでしたが外来で診たS医師の粘り強い説得で腹部CT、心電図、血液検査などをしたところ高度の腹水、胸水を認めました。また採血ではBUN61,クレアチニン1.8の腎不全、130mEq/lの低ナトリウム血症、およびCRPが12で白血球増多を認めました。心不全末期、尿路感染床の診断で入院加療をすすめられましたが本人は入院は絶対にしないとの決意です。
医師は倫理委員会に急遽かけて、このまま治療せずかえしていいものかと論議しました。その委員会でそれなら在宅医療で対応したらどうかという意見がありそれはいいという結論になったとのことです。それで当方に依頼がありました。外来主治医と看護師長がクリニックに相次いで見えられ診療情報提供と顛末を話されました。翌日の8月18日に早速訪問しました。初対面でゆっくりと川南さんのお話を聞きます。10年前に亡くなったご主人の所に早く行(逝?)きたいを繰り返されます。わかりましたよ自然体でいきましょうねと話しつつ現在の症状は心不全の末期ですべて説明できるのかと考えます。
近医ではジギタリスが0.125mg処方されており食欲低下はジギタリス中毒ではないかと考えとりあえずの中止と血中濃度測定をしました。5.9と中毒域でした。中止のまま様子をみ、尿路感染症にたいして処方されたラリキシンを継続したところ徐々に改善してきました。食事摂取量が少なく、かつ飲水量も少なかったのが幸いしたのか高度の下肢の浮腫も軽減し、腹水で膨満していた腹部もしわが見えるようになりました。当初週2回の訪問を3週間続け、その後週一回としましたが、川南さんは元看護師さんだったこととか、勤めていた医院が現在私が訪問診察に行っているお宅の隣だとか、私との信頼関係もできてきたなと思いますが相変わらず「お父さんの元に行きたい」といいます。そのたびに自然体でいきましょうねと話します。若いときの写真を見せてもらったら今の川南さんの2.5倍くらいの体重で内側から皮膚がぱっつんぱっつんにはっており今のしわだらけ(浮腫がとれたから余計にしわが目立つ)とは大違いです。そんなことを笑いながら話します。ep47-img

訪問開始時の頃、静岡からもう一人の娘さんがきていて2週間後に白内障の手術があるのだが、このまま金沢にいた方がいいかと聞かれ無難な答えで伸ばせるなら伸ばした方がいいでしょうと話しました。非がん疾患の終末期の判断は困難です。Lynnらの疾患群別予後予測モデルでも心疾患は急性増悪を繰り返しながら徐々に機能低下し最後は比較的急な経過をとるとされています(図)が、急性増悪時が末期なのかまた回復するのかの判断は困難とされています。急性増悪の要因をきちんと評価し対応し、後は自然体でいくしかないかなと考えています。川南さんは食事摂取量も徐々に増えて比較的元気に過ごされています。静岡の娘さんも帰られました。

46.全国統一在宅医療テスト           

 振り返ってみれば、「あれから40年」(きみまろの漫談に出てくるセリフ)の高校時代に習ったnCr=n!/(n-r)!*r!を思い出したエピソードです。
 在宅関係のメーリングリストに、全国統一在宅医療テストを受けてみませんかという案内がありました。医療法人ゆうの森の「たんぽぽクリニック」という在宅医療に特化した診療所が主催するテストです。ホームページ(http://www.tampopo-clinic.com/news.html)によると「自分達の知識不足から、患者様や連携先に迷惑を掛けることもあり、制度や仕組みについて勉強する必要を痛感しスタートし」「開業10周年の記念行事として、全国の知己の在宅医療クリニックに声を掛け実施したのが、全国統一在宅医療テスト」だそうです。

 その問題ですが、多肢選択の形式です。しかし通常の多肢選択と違うことがあります。5つの文章の中で正しいもの3つの組み合わせを選ぶとなると、5C3で=5!/(5-3)!*3!=10通りから選ぶことになりますが、国家試験もふくめ、5通りから解答するのが通常です(すでに半分にセレクトされている)。一つ、二つはあやしいところがあっても、確実に正しいとか間違っているとかが二つほどあれば正解できるものです。が、この全国統一在宅医療テストは、選択肢が10通りすべてから選ぶことになっており、ひとつたりとも不確かな知識では正解できない厳しさです。
 当院の訪問診察に関わる職員で毎年受験していますが、難しい問題が目白押しで、試験が開始になるとあまりの難しさにうめき声が上がります。今年はどんな問題が出るのでしょうか。

45.非がん在宅高齢者の終末期の判断について

今回は、「非がん在宅高齢者の終末期の判断について」というタイトルで2010年10月にあった第25回保団連医療研究集会で報告したことを紹介します。いずれも当院でみさせていただいた患者さんです。私だけではなく他の医師が担当した症例も含んでおります。
【目的】 在宅で長期療養中の非がん高齢者の終末期について、どういう判断のもとにどう対応しているのかを検討し、終末期の判断の現状を明らかにすることです。
【対象と方法】 在宅医療を受け、終末期と判断し在宅で看取りをした非がん患者30例と同様の基準で終末期と判断したが結果的には終末期で、はなかった3例。後方視的にカルテで終末期と判断した理由、治療の内容、多職種での検討の有無、終末期と判断してから死亡までの期間、訪問診察の継続期間、主疾患、年齢、性、自宅か居住系施設かなどを検討しました。
【結果】
1.終末期の判断;終末期の判断は、基礎に認知能力やADL低下を来す疾患が長期間有り、診察と血液検査で脱水や感染症などの急性疾患の合併による食欲低下ではないと考えられ、数日間の点滴でも改善しない例を終末期と考えた例が21名、急性疾患合併だが入院治療を望まず在宅医療で経過を見た場合が8名、肝硬変末期などの原疾患の経過と考えられる例が1名でした。1例を除き、終末期の医療処置についての自己判断はできませんでした。
2. 看取りをした方の平均年齢は90.7歳、終末期と判断してから亡くなるまでの期間は平均41.1ヶ月、医療処置としては、末梢からの補液有りが16.末梢からの補液無し12.終末期となる前からの高カロリー輸液が2例、胃瘻が1例でした。主要疾患ではアルツハイマー型認知症が7例、脳梗塞後遺症と老衰がそれぞれ3例、その他は種々でした。終末期であることを告知した場に参加したのは、一番多いのは家族・医師・看護師(この場合はクリニックの訪問診察看護師)で15例でした。家族・ケアマネ・訪問看護師・医師・看護師と関わる職種がすべて参加したのは1例のみでした。本人に告知されたのは1例のみでした。
3.結果的には終末期ではなかったのは3例でした。平均年齢は96.7歳、訪問診察継続期間は28.7ヶ月でした。全例に末梢からの点滴を平均39.3日継続しました。最長では82日間点滴をした後全例、経口摂取可能となりました。またこの3例は全例「居住系施設」でした。主要疾患は慢性腎不全(99歳)、アルツハイマー型認知症(90歳)、大動脈弁狭宿症(101歳)でした。

【症例】
91歳女性、アルツハイマー型認知症・糖尿病で7年前にグループホーム入居。200X年5月より食事摂取低下を認め。補液をするも改善しませんでした。食事摂取の低下の評価目的にビデオ嚥下造影検査を実施したところ、運動発動性弱く、咀嚼器の舌の運動が表れず、経口摂取での栄養充足は現実的で、はないと判断されました。摂食障害は認知症の病状進行に伴うものと考えられ、摂食障害の改善の可能性は乏しいと考えられました。家族は自然に何もしないでそのまま死を迎えたいとの意向で、胃瘻や中心静脈栄養は拒否されました。が、最低限の末梢からの補液には同意されたので、5月11日から7月16日まで末梢から1000mlの点滴を連日の訪問診療で実施しました。同時に経口摂取も介助で促したところ7月17日から食事がとれるようになったので点滴は週3日となりました。最終的に点滴は8月14日で修了し、以後1年以上経口摂取ができています。
【文献より】
1. 特養の常勤医師である石飛幸三の「平穏死のすすめ」(講談社)には「生物学的にも限界に来ている個体が終焉を願っているのに、何の権利があって医療を押しつけるのか納得できない(p.l78) ともある一方、「誤嚥性肺炎で入院し、経口摂取は困難といわれながら、胃痩を断ってホームに戻ってこられた女性---看取り介護の同意書を作成---若いときの写真を見た看護師がその美しさを絶賛したところ、本人は元気になって一年以上はたっています(p.l73) と終末期と判断した人が元気になった例の記載があります。生物学的に限界に来ていることの判断は客観的にはできないことをはからずも述べたことになっていると感じました。
2. 医事評論家の行天良雄さんがリハ医学会で、おこなった講演「介護とリハビリテーション」が、リハ医学2003 ;40 :1 71-174にでています。「98歳の父が、軽い脳卒中、その後全く動けず発語もない状態になりたくさんの専門家にみてもらってもせいぜい1-2ヶ月といわれた。---自分(行天さん)はどこまでできるかやってみようと自宅で介護をした、まさに24時間対応をした。すると、父親は自分で歩いて、自分で食事をとる、積極的に話すようになった。8年間続いた。106歳で亡くなった。一一湯水のようにお金がなくなった。」とあります。98歳で終末期といわれた方が手厚いケアで106歳まで比較的元気に生きたことの例です。年齢だけでは終末期かどうかは判断できないことを示されたと思いました。
3.仙台往診クリニックの川島孝一郎は日本在宅医学会雑誌11(2) ;198. 2010に「実体と構成概念」という文章を書いています。実体は「思考の内にのみ存在する概念と独立に、事物、事象として存在すること」であり、構成概念は「我々が知覚する事柄を理論的に説明するために構成され、導入される概念」としたうえで、終末期は構成概念であるとしています。構成概念を実体と誤認すると終末期医療に客観的な規定を設けようとするため混乱を引き起こすとのべています。
【結論】
1. 非がん高齢者の終末期を客観的に規定することはできないと思われました。
2. 死に至るまでどう生きてもらうかが重要ですが、そのことが、ケアのレベルに規定されているのが現状であると思われます。

44.保険証はどこ、ついでに出てきた夫の写真      

 村山はなさん(仮名)は、一人暮らしの91歳の女性です。全身のしびれを主訴に長らくA病院に通院されていましたが高齢で移動動作が困難になり訪問診察が開始になりました。難聴があり、訪問して会話するときは布団に寝ている村山さんの耳元に、こちらは四つ這いになって話しかけます。 初回訪問時は、切々と訴えるしびれのつらさに耳を傾けました。頭の先から足先までのしびれで、客観的な感覚障害がなく、無論運動障害もなく身体表現性障害かなとも思いました。「焼かな治らん」と話されますが、「何とかなるかもしれないので頑張ります」と応えると少しは期待を持った目で見返されました。

  さて、独居の高齢者で認知能力が低下している場合は、保険証の確認もなかなか困難であるというお話です。保団連が出している「保険診療の手引き」には、「受診の都度、すくなくとも初診日及び各月の始めの診療日には被保険者証を確認するのが望ましい」とあります。初診日には必ずみせていただき、デジカメで写真を撮ります。が毎月となると少し怪しい面があります。訪問診察時には案内として、毎月被保険者証をみせていただきますといっている関係で、月初めに家族の方がきちんと被保険者証を呈示されることがあります。がそのうち曖昧になってしまっているのが現状です。ただそうはいっても、後期高齢者医療被保険者証の場合は、毎年7月31日で有効期限がきれるのでその時は必ず確認します。村山さんにも、「保険証をみせてください」と例のスタイルで話すと、ここに入っているはずといまは無き老人保健法にもとづく健康手帳を出されました。開いてみても該当のものがありません。「村山さん、ここにはありません。名刺と同じ大きさのものですがありませんかね」と聞くと、今度は旧いバッグを持ってきました。中を見ながら村山さんはこれでもない、あれでもないといろんなものを出しますが結局、被保険者証は見当たりません。が、証明写真大の比較的若い男の人の写真が出てきました。この方は誰ですかというと「お父さん」となつかしそうにいいます。若くして夫を亡くし子どもを育ててきた人生が垣間見えます。そんな感慨にふけっていても被保険者証は出てきませんので、村山さんに了解のもと、となりの部屋のテーブルや棚などをあれこれ探しますがとうとう出てきません。10分ほど探してその日はあきらめました。2週間後に訪問したときに、被保険者証は見つかりましたかと聞くと、これでしょうとまた健康手帳を出されます。出てきたんだな、やれやれと思って中を見ますと前回と同じです。旧知のケアマネに連絡して事情を話し、継続探索をお願いしました。独居で認知能力が低下している場合は、こういった書類管理もなかなか難しいなあと感じます。90歳の前半では約半数が認知症ですから、村山さんのような方は多いと思います。ちょっとした見まもり、ちょっとした助言、ちょっとした援助があれば大丈夫なんだがな、しかし制度としてはなかなか難しいですね。

43.老老介護 二人合わせて200歳

今回は二人合わせて200歳のご夫婦の話です。今まで訪問診察にお伺いした高齢者2人世帯の中では断トツ最高齢です。
基井桐子さん(仮名)は今年で101歳です。夫の志功さんは99歳です。お二人は専門は違いますが国文学者です。志功さんは、以前高血圧で私の外来に通院されていましたが、少し遠方なので近くの内科医院に転院されました。

その後も頭痛、ふらつきなど神経内科疾患が疑われたときには私の外来に時々みえておられました。桐子さんが低ナトリウム血症による意識障害で入院しその後転倒骨折などもあり廃用が進み発語なく食事摂取量は少なめでしたが在宅療養を希望されました。少し遠方なのですが是非にというありがたいご指名で訪問診察が開始になりました。始めて訪問したときは、二つ並んだベッドの周りは天井まで届く本棚でぎっしりと専門書がつまっているのをみて学者夫婦の家だなと感心しました。
桐子さんは要介護5です。訪問診察では、寝ている方は座ってもらい、座っている人は立ってもらい、さらに歩いてもらうことにしています。太田仁史先生は終末期リハビリテーション 攻めるも守るもこれ一戦と称して歩行能力を重視しています。桐子さんは寝返りもうてないのですが、手引きでなんとか2メートルほど歩けます。寝ているときとは表情も違います。桐子さんは私をみると「お世話になります、ありがとう」と何度も話されます。訪問看護と訪問介護のサービスが入っていて在宅生活をささえています。99歳の夫はすこし斜頚ぎみ(90台後半の男性には斜頚が多い??)ですが畳からの立位も素早くすこぶる元気です。訪問すると必ず読書をされているか文章をかかれています。学者として生涯現役です。こちらは知らず知らずのうちに尊敬の眼差しです。志功さんは姉さん女房の桐子さんをいとおしむ様に見守っています。熱がでたとか、痰がごろついているとか、心配な現象があると私の携帯電話がなります。
桐子さんの強みは食べることです。ペースト状の食事をしっかり食べられます。「熱が出ようと咳がでていようと食べてさえいればまあ、あわてることはありませんよ」と、基井さんに限らず介護者によく話します。映画評論家の淀川長治さんは、チャップリン映画の解説で「チャップリンは、食べますね、食べますね、食べますね。これが力の元なんですね」と話されていたのを思い出します。

42.早く退院できる環境を 

        
 膳所あかねさん(仮称)は、現在グループホームに入っていますが、最近盲腸癌の手術をうけました。今回は、侵襲的検査を実施することの判断の難しさと、術後の回復がグループホームという生活の場で行うことによって著しくすすんだというお話です。
 膳所さんとはじめてあったのはずいぶん前になります。統合失調症を発病した全盲の息子さんをつれて救急外来にこられた20年ほど前が最初です。「こんな息子をもって」と愚痴をこぼしていたのが印象的でした。10年前に膳所さんが通院困難となり当院から訪問診察に行くようになりました。そのころは、シロアリが体について困るといった体感幻覚様の症状がありました。そして8年半前に現在のグループホームに入られました。そこからは職員に連れられて外来通院になりました。自分で作ったパイプを切ったようなものを杖にして歩いており、幻覚も全くなくなり別人のように元気でした(グループホームでの生活が良かったのだろうと思いました)。

 その膳所さんは、20X-2年6月3日に下血があり、S字結腸ファイバーでAV50cmより口側より出血が降りてきているとのことでした。さらなる精査は大腸ファイバーが必要でしたが、グルーホームの職員とも相談した結果、とても下剤2リットルは飲めないだろうしかつ拒否するだろうから検査は困難と判断しそのままフォローとなっていました。貧血が徐々に進行し20X-2年12月25日では血色素6.8でした。フェリチンも低くフェロミア処方していたところ20X-1年6月までに11.7g/dlまで改善していました。何となくそれで安心していて問題が未解決なことの意識が消えてしまっていました。ところが、20X0年3月2日頃より食事摂取量の低下あり、3月6日に38.3度の発熱、7日に往診し診察所見で腹部圧痛もなく、とりあえず補液をしました。8,9日と発熱がつづき、おなかを触ったところ鼓腸と左下腹部の圧痛があり、急遽、画像診断(CTとUS)をした所、下部小腸イレウス、虫垂または大腸癌の穿孔による回盲部腫瘤と考えられ緊急入院となりました。盲腸癌、膿瘍形成、腸閉塞、肝・肺転移と診断され右半結腸切除を受けました。術後、私が回診に行くと丸まって臥床しており、両膝関節も屈曲拘縮気味でかつ食事摂取も不十分でした。このまま入院していることはかえって不利だと考え退院していただきました。退院翌日に往診するとかなりの高張性脱水(ナトリウム159)になっており補液を連日つづけラコールものんでいただき、職員がつきっきりで食べさせていると徐々に改善し座れるようになり、食事もとれるようになりました。なじみの職員が、生活の場で24時間対応できる環境でマンパワーをそそぐことが、認知症高齢者の機能回復には何より大切と感じました。退院後に短期集中的にケアが提供されることが、退院をスムーズにさせると同時に高齢者の機能回復にも必要だろうと思いました。

41.介護者諸相(3)   

 保田四郎さんは82歳で亡くなられましたが、11年間訪問診察に行っていました。その長い在宅療養中に、介護者が選手交代したお話です。
  保田さんは、脳梗塞をおこす前は、でっぷりと太っていて、座ると突き出たおなかにお銚子を何本も乗せる事ができたそうです。宴会があると上半身裸になり、自分のおなかにお銚子を乗せてよく飲んでいたと介護者の妻が話していました。その話を聞きながら保田さんはそうだったといって笑っていました。脳梗塞後は体重減少が有り、おなかもぺちゃんこでその面影はありませんでした。保田さんは、脳梗塞以後は家業の食堂を息子夫婦に任せ、介護は妻が全面的にしていました。息子夫婦は食堂にかかりっきりで訪問時も顔を合わせることはありませんでした。

  その妻がある日、心筋梗塞で急死しました。その時はとりあえず保田さんにショートステイにはいってもらいましたが、私たちの頭に思い浮かんだのは、保田さんはこれで在宅療養は終わりで施設入居になるだろうということでした。何でそう思ったかといえば、いままで介護は姑にまかせっきりであったこと、家業の食堂があることなどからとてもお嫁さんには介護が無理だと感じていたからです。ところが、保田さんを残して亡くなった姑は、おそらく後ろ髪を引かれるような思いでいっぱいであっただろう,安心して成仏してもらうためには保田さんの介護を引き受けるべきと考えたのかお嫁さんが、「私が介護します」ときっぱりと宣言したのでした。
 その後、お嫁さんの介護を受けながら、進行胃がんの合併と、低温火傷からの下肢の壊死などを併発しながらも、在宅で最期まで療養できました。貧血が進行し、在宅で輸血をした当院での一例目ともなりました。保田さんが亡くなったときに息子さんから是非、中陰に来てくれといわれました。訪問診察にいっていた方で亡くなった方はかなりの数に上りますが、中陰に来てくれといわれたのは初めてでした。ながらくの介護,本当にご苦労様でしたねと、お嫁さんをねぎらい、保田さんの妻もあの世で「また介護せないかん人が来た」といっているかねなどと話をしました。保田さんが十分に介護された上で最期まで自宅におれたという満足感も親族の間に有り、中陰の席は賑やかなものでした。

 お嫁さんが、保田さんの息子さんと結婚して同居となり、子育てをしながら家業の食堂の仕事をしていたときに保田さん夫婦とどういう人間関係であったのかは具体的に尋ねたことはありませんが、私が介護しますと宣言できたのはその人間関係に暖かいものがあったからだと推測しています。「人間は生きてきたように、死ぬ」。
 当時高校生だった保田さんのお孫さんが、母親が祖父を介護する姿を見ていて決断したのか、介護福祉士の学校に入り、資格をとって後、私たちの関連の病院の療養病床につとめるようになったのはそれからしばらくしてからのことでした。 

40.介護者諸相(2)   

 吉村年子さん(仮名)はくも膜下出血の後遺症で左片麻痺と認知症を呈しています。くも膜下出血で倒れて6年になります。療養中に右大腿骨骨折を起こし手術も受けています。食事摂取以外は全介助に近い状態です。
 訪問診察の日はデイサービスの日にかさなりお伺いするのは夕方5時過ぎになります。デイから帰ってきた吉村さんはベッドに横になっています。「吉村さん、今日は」というと寝たままこっちを向いてにっこり笑みをかえしてくれます。何ともいい笑顔です。

 夫が主たる介護者です。時々嫁いだ長女さんが見にきていました。吉村さんの家は息子さん一家と二世帯同居ですがお嫁さんは全く手を出しません。訪問すると2階に住んでおられるお嫁さんの足音などが聞こえるのですが一度も顔を見たことはありません。夫もかなり高齢でいわゆる老老介護です。夫が手指の多関節炎で手に力が入らず介護困難になった時期があり(幸い、その後リウマチ科の診断で少量のステロイドで症状は改善しましたが)、その時ほどお嫁さんにちょっと手伝ってもらえたらと思ったことはありません。ケアマネージャーにお嫁さんに介護の協力を得られないのかと尋ねても無理だとの返事です。そういう関係になるには、どういう過去があったのだろうかと思ってしまいます。介護する側とされる側の関係は、それまでの長い両者の関係に規定されていると思われますが吉村さん夫婦とお嫁さんとの関係はわかりません。
 訪問すると、一般診察をした後、ベッドに端座位になってもらい、私はその横に並んで座り新聞の見出しを読んでもらいます。日常会話は困難な吉村さんですが、新聞の見出しは結構読めます。声を出して読んでもらい上手く読めると「読めましたね」と、看護師共々声をそろえて褒めると吉村さんもにっこりです。が、一番喜ぶのが夫です。破顔一笑というべき笑顔で「読めたんか、ハッハッハ」と声を出して喜びます。それを聞いた吉村さんは、さらににっこり笑顔です。

 夫は、その後パーキンソン症候群と認知症の症状が出てきて吉村さんの介護が困難になってきました。無論、お嫁さんはノータッチです。ついに吉村さんは特養に入居となりました。夫は要介護認定を受けヘルパーさんに入ってもらい生活を維持することになりました。しかし食事をまとめて食べてしまったり、ポータブルトイレへの移動動作が困難で床に転倒して失禁のまま起き上がれなかったりの状況となりました。お嫁さんがちょっと手伝ってくれたらなあとも思いましたが結局小規模多機能型居宅介護を利用することで(お泊まりが多い)生活を維持しています。その小規模多機能施設は吉村さんが入った特養と同じ建物にあります。夫をそこで診察した後、特養の吉村さんに会いに行ったときも、夫はにこにこ顔で吉村さんに話しかけます。
 現在は過去を移す鏡なのでしょう。良い人間関係の継続が求められることを痛感します。

39.介護者諸相(1)

 今の介護保険制度は、1997年頃の議論では介護の社会化といった理念が語られましたが、紆余曲折の後、家族介護を前提にした制度となりました。それは、同居の家族がいるとヘルパーによる生活支援が制限されるといったところに端的に表れています。さて、今回はその家族介護の担い手の介護者のお話です。

  岩下みのりさん(仮名)は、75歳で亡くなられました。当院から16年間にわたり訪問診察にお伺いしましたが当院で最も長く訪問した方です。岩下さんは、35歳より高血圧があり52歳で脳梗塞を発症し左片麻痺を呈しました。その後再発があり通院困難ということで訪問診察が開始になりました。岩下さんは妻との2人暮らしです。子供さんはいず、いつも犬と一緒に暮らしておられました。妻は岩下さんより5歳上の姉さん女房です。妻が飲み屋をしていたときに常連だったのが岩下さんで縁あって結ばれたと聞きました。私たちが訪問すると、妻は丁寧に応対されますが、いろいろ話をしていると岩下さんに対してぐさっとくる言葉を投げつけます。「こんな障害のある男と結婚しなければよかった」などと私たちはどう!
フォローしていいかどぎまぎします。しかし、飼い犬の「あいちゃん」は「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」ということわざどおり、そ知らぬ顔です。あるとき「あいちゃん」の先代が車にはねられて死にました。その後訪問したときに「あんたが死ねば良かったのに」と妻が言ったときは本当に凍り付くような感じがしました。岩下さんは、少し哀しいような苦笑いを浮かべ黙っておられました。岩下さんには訪問看護もはいっていましたが、その報告書にも「岩下さんに言葉荒く攻撃したりしていました」という記載がありました。比較的若くして障害を持った夫を抱え、収入に不安があり、頼るべき子供がいず、夫が徐々にADL低下していく中で介護量が増えていくなど、さまざまな要因が重なっての葛藤のなせるわざと私たちは理解しようとします。何年も何年も、毎日24時間一緒にいるなかで2人の中に形成される人間関係は、回りのものには理解できなくて当たり前だとも思います。言葉による暴力だといわれればその通りですが、私たちのできることは何かを考えながらの訪問です。

  訪問診察の空気を和ませてくれるのはワンちゃんです。私にもずいぶんなつき、往診車で到着するとその音で興奮しぐるぐる家の中を走り回り,玄関を開けるとぴょんぴょんと飛びついてきます。その様子を見ている、妻も岩下さんもにこにこです。ワンちゃんに感謝感謝です。ご褒美にジャーキーをあげたり、写真を撮ったりして感謝の意を表します。
 独居になった、妻は認知症が徐々にあらわれ何らかの医療の介入が必要と判断され、訪問診察に行くことになりました。妻は転倒して大腿骨頸部骨折をおこして,家に帰ることを望みつつ、特養に入られました。ご自宅の近くを通ると無人となった家をみて2人とワンちゃんを思い出しています。