37.いわゆる「死に目」(2)
二野繁さん(仮名)は、頬粘膜癌というめずらしい癌に冒され、大病院で動注化学療法や放射線治療などを受けましたが、副作用の強さなどもありそれ以上の積極的治療を望まず在宅生活をおくることになりました。当初は、他の医療機関に通院して、疼痛管理などの投薬を受けていたのですが、体力の低下のため通院困難をきたすようになり訪問診察が依頼されました。訪問しますと、インテリジェンスの高い方で、近藤誠著の抗がん剤の副作用の本などを読んでおられました。また今までの経過を文章にきちんとまとめてくださっていました。頬粘膜癌のため開口制限があり発声が困難なため筆談でのコミュニケーションになりました。1時間ほどかけて本人の症状や訴えを把握しそれに対する治療方針の説明をしました。妻との2人暮らしで娘さんが2人おられ、長女さんは金沢在住、次女さんはアメリカ在住でした。妻のことを「メッチェン」と呼び(学生時代に聞いたことがある単語)自身が亡くなった後の妻のことを心配しておられました。また根っからの平和主義者で、「戦争私論」という著作を書いておられ生きている間に完成させたいと強い願いを持っていました。幸い著作は亡くなる前に完成し本人はもう思い残すことはないと筆談でおっしゃっていました。妻のことも金沢在住の娘さんに託すということで安心されたようでした。
当初は開口制限があるもののお刺身などを経口摂取できていたのですが、その後開口制限が急速に進み飲水も困難になってきました。癌による食欲低下ではなく開口制限による食事摂取不良なので胃瘻を進めましたが本人はこれ以上はしたくないとの意思表示でした。高カロリー輸液も希望されませんでした。次女さんはアメリカで作業療法士をしていたのですが一時帰国されました。12日間の滞在です。次女さんに病状説明し二野さんに胃瘻をするように話をお願いしたところ二野さんも了承されました。経鼻内視鏡下で胃瘻造設を日帰りですることになりました。当日は、アメリカのビザとの関係で当面日本に再帰国できない次女がアメリカに戻る日と重なりました。帰りの電車の時間ぎりぎりまで胃瘻をお願いした病院で父親と一緒にいたのですが、ついに時間がきて娘さんは父親に別れを告げて廊下を去っていきました。廊下を曲がると本当に永遠の別れになるかと思ったら、私は思わず次女さんの名前を大声で呼んでいました。振り返った次女さんがもう一度手を振り本当に本当に最期の別れをしました。
二野さんが亡くなられたのはその61日後でした。次女さんは死に目には当然会えなかったのですが、十分なお別れをしたのだと思っています。心残りは当然あったでしょうが死に目に会えない「覚悟」の別れはできたと思いました。
二野さんの辞世の句です。「あの青さよ、我が屍をゆだねて、心安らわむ、空の色かな」