訪問診察には様々な職種の方や学生さんが研修として同行することがあります。
松本さんの家に到着すると、看護師さんは勝手口から家の中に入っていきます。私と研修生は別行動で家の前の松の木の所に行きます。旧北国街道に面したお宅の前には「旧跡」を示す表札が出ています。研修生には「旧跡」のいわれを説明した後に松本さんの家に入ります。松本さんに「研修生に旧跡の説明をしてきました」と報告すると松本さんもにっこりです。型どおり診察をした後、歩行状態の観察もかねて、居間から玄関まで歩いてもらいます。研修生も一緒です。玄関には、松本さんが元気なころに集めたもの(シーサー、絵画、お面など)が飾ってあります。極めつけは、水琴窟の音がする甕です。電気を入れると水がごぼごぼっと湧いてきて上面の貯水皿にたまります。いっぱいになり「あー、あふれる」思った瞬間、澄んだ高音の水音が響いてきます。水琴窟の音です。同行の研修生は異口同音に「驚いた、すごい」といって感心します。松本さんも「にやり」です。元気だった頃の松本さんの人生を思い浮かべる瞬間です。松本さんがいろんな観察眼で選んできた品々は、何故か私の好みにぴったりで余計に松本さんに親近感がわきます。しかし、こんな松本さんも一時期はかなりひどい認知症の症状がありました。
松本さんはながらく糖尿病で他院に通院中でした。閉塞性動脈硬化症の精査で入院し、心臓カテーテル検査を受けた3時間後に脳梗塞を発症し、被害妄想、せん妄状態となりました。退院後自宅でもせん妄状態が続き、かつインスリンを打たせないなど拒否的な態度となりまた歩けるのに「動くな」という架空の命令が頭の中にあり歩かない状態となりました。娘さんがケアマネージャーをしており、このまま閉じこもりではますます認知症が悪化すると懸念し、当院の認知症対応通所介護を利用するようになりました。通所介護の担当者が松本さんの認知症について医学的なアプローチもキチンとすべきではないかと娘さんに話して、その結果私の外来に車いすで受診となりました。
長谷川式は10点で、診察中「不安だ、ゲームが上がると死んでしまうのではないか」と繰り返されます。松本さんの頭の中に人生の双六があり、あがりそうになると、それで人生が終わるのではないかと不安が襲ってくるようです。CTでは、右大脳半球に分水嶺梗塞を認めます。おそらく内頚動脈狭窄と思われました。とりあえず不安感が和らげられないか、レスリンを処方しました。そして通院困難ということもあり訪問診察をすることにしました。
レスリン投与で少しはいいのですが、「自分が動くとガラスが割れるんではないか、あぶないから電気を消せ、死ぬんではないか」などと繰り返します。精神科の医師に相談してセロクエル(25)を一日3錠追加しました。その後は徐々に落ち着いてきまして、1年ほどで両薬とも中止になりました。歩行も安定してできるようになりました。現在まで続いている行動障害は、食事の時に食べ物を分別するという行為です。たとえば、野菜炒めなら、キャベツはキャベツ、人参は人参、肉は肉という具合に分別するというものです。そのため食事にとても時間がかかると妻がこぼしますが、一時期の異常行動からみれば「これくらい」と笑いながら話されます。初診の頃とはずいぶん良くなりましたが、長谷川式は13点とそれほどの変化はありません。訪問診察時の松本さんとの会話はいつも丁々発止で、ウィットに富み笑いが絶えません。同行の研修生は松本さんをみて認知症とは決して分からないだろうなと思っています。今の松本さんは、不安が消え安心して暮らせており、これが認知症ケアの目標なんだなと感じています。